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【特別寄稿】

時空を超えた週末旅行

   ──ジャン=リュック・ゴダール『ウィークエンド』断章

山田宏一(映画評論家)




1. 60年代ゴダール最後の作品



WE1.jpg
ゲリラ戦士になったミレーユ・ダルク
© Les Films Copernic/Comacico


 『ウィークエンド』はジャン=リュック・ゴダール監督の長篇第15作で、60年代ゴダール──1960年代のゴダールの劇場用商業映画──の最後の作品になる。商業主義などものともせずに、響きと怒りにみちた、型破り、大暴れのゴダール映画の快作(痛快無比の傑作と言いたいくらい)だが、1年後、1968年の「五月革命」とともに、商業主義から遠く離れて、自主的な「革命的闘争映画」に突っ走るゴダールは、その後また一時的に劇場用商業映画に戻るものの、二度とこんなにおもしろい(などと言っては失礼かもしれないけれども)作品をつくることはないのである。

 週末になると田舎に出かけるパリのマイカー族の生態とその「集団的ヒステリー」を描いた『ウィークエンド』は、この世も終わり、愛も終わり、映画も終わりという、すべての終わりを告げるゴダールのあらゆる意味での終末論とも言うべき映画だ。

 冒頭、メインタイトルが黒地に赤、青、白のアルファベット文字で出てくるのだが、『ウィークエンド(WEEK-END)』と一語になっておらず、バラバラに、まずENDからはじまってWEEKに終わる文字が7行になって出てくる。1行目がEND(赤)WEEK(青)END(白)、2行目がWEEK(赤)END(青)WEE(白)、3行目がそのつづきで、K(赤)END(青)WEEK(白)EN(赤)、4行目がまたそのつづきで、D(青)WEEK(白)END(赤)WE(青)、5行目がまたそのつづきで、EK(青)END(赤)WEEK(青)E(白)、6行目がまたそのつづきで、ND(赤)WEEK(青)END(白)W(赤)、7行目がまたそのつづきで、EEK(青)END(白)WEEK(赤)という構成である。映画のタイトルからして「終」の意味の「END」からはじまるのだ。
END WEEK END
WEEK END WEE
K END WEEK EN
D WEEK END WE
EK END WEEK E
ND WEEK END W
EEK END WEEK

 映画そのものの終わりも、フランス語で「終」の意味のFINが大きく出てきて、エンドマークかと思うと、その下に「コント(cont)」と「シネマ(cinema)」という文字が出てきて、「小話と映画の終わり」と読ませるのだが、「コント」はコントロール/検閲(controle)という名詞の一部、「シネマ」はシネマトグラフィック(映画の)という形容詞の一部だったことがわかり、つまりは、物語もこれで終わり、映画検閲もこれでおしまい、劇場用商業映画にもおさらばだ、といった感じなのである。

 ヒッチハイクのシーンでは、「これは映画か、現実か?」と問われて、「もちろん、映画だ」と答えると、「この大ボラ吹きめ!」とののしられて、乗せてもらえないというギャグがある。「マオとジョンソンではどっちと寝たいか?」と問われて、「ジョンソンにきまってる」などと答えようものなら、「このファシストめ!」とののしられ、もちろん乗せてもらえない。マオは中国の文化大革命の指導者、毛沢東(マオ・ツオトン)、ジョンソンはベトナム戦争拡大政策をとって長期化、泥沼化させたアメリカの大統領、リンドン・ジョンソンである。

 フランク・キャプラ監督のロマンチック・コメディー『或る夜の出来事』(1934)で女がスカートをちょっとめくって足を見せ、見事に車をとめるという有名なヒッチハイクのほほえましいギャグがあるけれども、その残酷な(としか言いようのない)パロディーもある。女がいくら車をとめようとしてもとまらないので、男が女を道のまんなかにひっぱっていって、「ズボンをぬげ! 仰向けに寝ろ! 膝を立てろ! 股をひらけ!」と強要するのだ。

 ヒッチハイクがうまくいかず、歩き疲れて、女はひと休みしたいと草むらに寝転び、男は道端に腰をおろして、たばこを一服すう。そこへ浮浪者が通りかかって、草むらをのぞきこみ、「女がいるぞ」と言って、たちまち犯してしまうところがある。浮浪者を演じるのは、ロベール・ブレッソンの映画にしか出ていないジャン=クロード・ギルベールで、『バルタザールどこへ行く』(1966)ではキリスト的なイメージを背負った浮浪者を、『少女ムシェット』(1967)では16歳の少女を強姦する森番を演じただけ。まさにそうした「ブレッソン的人物」として登場するのだが、なんともそっけなくリアルで残酷な引用だ。女はただ犯されるだけ。女はヒロインのミレーユ・ダルクである。

 男はジャン・ヤンヌで、パリのお屋敷街、16区に住むブルジョワの夫婦、夫のロランをジャン・ヤンヌが、妻のコリンヌをミレーユ・ダルクが演じるのだが、にくみ合い、いがみ合い、ののしり合い、主役のカップルがこんなに下劣で鼻持ちならないキャラクターの映画もないだろう。

 1973年にミレーユ・ダルクが来日したとき(たしかユニフランス・フィルム主催の「フランス映画の夕べ」でイヴ・ロベール監督、ミレーユ・ダルク主演の1972年の洒落た軽快なコメディー『ノッポで金髪で片一方だけ黒い靴をはいた男』が上映された)、インタビューをするチャンスがあったので、『ウィークエンド』のこともいろいろ聞きたかったのだが、急に不愉快な顔をして、吐き捨てるようにこんなふうに答えてくれただけだった。

──ジャン=リュック・ゴダール監督の『ウィークエンド』に出演することになったのは、ミレーユ・ダルクさんご本人からの企画と要望だったとのことですが……

ミレーユ・ダルク ええ、たしかに。当時、わたしは『恋するガリア』(ジョルジュ・ロートネル監督、1966)のような自由でファッショナブルに生きる現代女性といった役ばかりで、そんなイメージから脱皮するチャンスとして、ゴダールを監督に選んだのです。わかるでしょ、ゴダールの映画は月並みじゃないんです。

──ゴダールとの仕事はかなりきつかったとのことですが……

ミレーユ・ダルク 撮影中、あんなにつらかったことはありません。それに、不愉快でした。ジャン=リュック・ゴダールは撮影中、ああしろ、こうしろと一方的に指示をするだけで、どういうふうにやればいいのか、なぜそうするのか、まったく説明してくれない。会話のようなものができない。誰とも何も話さない。ただ、俳優をいろいろなシチュエーションのなかに投げこんで、反応を試してみるだけ。俳優はまるで実験動物なみ。物としてしかあつかわないこともある。だから、彼の映画に出る俳優は相当マゾヒストでなければ耐えられないと思いますね。監督と俳優のあいだには何のコミュニケーションもコンタクトもない。シナリオもない。何もない。その役柄や演技にどんな意味があるのか、俳優はいったい何をやっているのか、まったく何もわからない。これからどんなシーンを撮るのか、どんな役なのか、どんなふうに演じればいいのか、監督からは何の説明もない。ただ、左を向け、右を向け、進め、とまれ、と命令するだけ。俳優にとって、あれほどおもしろくない撮影もないんじゃないかと思います。俳優だって人間ですから、監督と親密に理解し合って、一種の共謀者になりたい、そうやって作品に参加したいと思うのが当然です。いっしょに映画をつくっているのですから。でなければ、やり甲斐がないと思うのです。

──しかし、『ウィークエンド』は衝撃的な、すばらしい作品でした。もうゴダールの映画に出る気はありませんか?

ミレーユ・ダルク ありません。二度といっしょに仕事はしたくないですね

(インタビュー集「映画とは何か」、草思社)


 すべてがこれで終わりなのである。映画の週末は映画の終末になるのだ。



2. 皆殺しの天使


 キリスト教神学の終末観ではキリストの来臨が世界を救済するものと待望されたが、映画の週末に現れるのは「神とアレクサンドル・デュマのあいだにできた息子」で、デュマはもちろん「モンテ・クリスト伯」や「三銃士」を書いた小説家だが、女性ではなく、その息子とはいっても、「椿姫」を書く心やさしいデュマ・フィスとは大違いで、世界の救済どころか、ルイス・ブニュエル監督の1962年のメキシコ映画のタイトルと同じ「皆殺しの天使」(という字幕が出る)なのである。「神は年老いたホモだ。それは万人の知るところだ。神はデュマと寝て、俺をつくったのだ。ゆえに、神とは俺のことだ」とジョゼフ・バルサモと名のる、ヒッピーという言葉がそのころすでに一般的だったか、どうかわからないけれども、画家がアトリエで着ているような赤い上っ張りを着た放浪者ふうの青年は豪語する。エリック・ロメール監督の『コレクションする女』(1967)にも出ている画家のダニエル・ポムルールが演じているのだが、ジョゼフ・バルサモは架空の人物ではなく、イタリア名ではジュゼッペ・バルサモ、通称カリオストロ公爵としてロンドン、パリ、ウィーンを股にかけた大詐欺師で、眼科医、マジシャンで、催眠術、錬金術、降神術などを得意業とし、不老長寿の霊薬を売り歩き、死者蘇生をおこなうと称して一世を風靡するが、フランスで王妃マリー=アントワネットの名をかたった「首飾り事件」(アレクサンドル・デュマの小説で語り伝えられることになる)でフランスから国外追放され、その後ローマでヴァチカン宮より終身刑を言い渡され、1795年、牢死した。そんな男が、マグダラのマリアのようなマリー=マドレーヌという名の真紅のエナメルのコートを着た若い娘と連れ立って、現代の週末に──殺意の週末に──突如出現して、野原に捨てられたままの車の残骸の山を一瞬にして羊の群れに変えてしまうという奇跡をおこなったりする。その羊の群れのなかに、真っ黒な羊が一頭いるのだが、「黒い羊(mouton noir)」といえばフランス語では(英語の「black sheep」と同じように)一家の不良、教室のワル、世間の持て余し者、組織の厄介者、はみだし者つまりは異端者の意味に使われるので、映画界の毛色の変わった嫌われ者としてのゴダールの自覚症状がこんな表象になっているのかもしれない。

 饒舌な「皆殺しの天使」、ジョゼフ・バルサモは、ジャン=ポール・サルトルがシモーヌ・ド・ボーヴォワール、メルロ=ポンティ、レイモン・アロンらとともに創刊した月刊誌「現代(レ・タン・モデルヌ)」にひっかけて、「俺は現代に文法の時代の終末を告げにやってきた」と言い、「あらゆる分野でかがやかしい新しい世界がはじまる。とくに映画の分野でな」などという予言ものたまう。古い「文法」にもとづく商業主義映画との決別を、こんなふうにゴダールはすでに予言しているかのようである。

 映画の冒頭に、宇宙(cosmos)──秩序と調和の世界──で行方不明になってしまった映画だが、クズ鉄(ferraille)──廃品処理場──に捨てられているのが見つかった映画、といった意味の2枚の字幕が出てくるように、『ウィークエンド』という映画そのものをスクラップあつかいした「さらば映画」のマニフェストなのである。

 こうして、パリのブルジョワ夫婦、ロラン/ジャン・ヤンヌとコリンヌ/ミレーユ・ダルクは、時空を越えた週末旅行に出かける──というよりも、迷いこむ──ことになるのである。



3. ゴダールのドタバタ喜劇



WE2.jpg
© Les Films Copernic/Comacico


 夫婦はおたがいに愛のかけらも持ち合わせておらず、それどころか、殺意を抱き、ただ、ただ、いがみ合っていて、できたら相手が交通事故で死ねばいいのにとおたがいの死をねがっているほどである。男にはもちろん若い愛人がいて、ひそかに電話をしている。そのあいだに、女は女で愛人の精神科医に悪夢のような異常な快楽の性体験を告白しているのだが(逆光で顔の表情なども見えず、暗く重苦しいイメージだ)、どうやらそれはジョルジュ・バタイユのポルノ小説「眼球譚(目玉の話)」からの引用らしい。ときどき音楽がうるさく高鳴り、告白の大部分が聞き取りにくいのだが、断片的にそれと推測される淫らで猥褻な表現が不意にもれる(というか、露呈、露出する)からなのである。「ANALYSE(分析)」という字幕がインサートされ、ANALとYSE分けられて上下2行に出てくるために、ANAL(肛門)の文字がきわだって目にとびこんでくる。生卵を割るのはオムレツをつくるためでなく、セックスの小道具に使うということからも、それと察せられる。生卵は映画のラストの森のなかにこもったテロリストの革命ゲリラの性と虐殺の儀式にも使用される。

 女の母親が住んでいる田舎で週末をすごすために(じつは週末ごとに訪ねて毒を盛ってきた甲斐あって寝たきりの父親の死が近づいているので、その遺産をねらって)、夫婦は自家用車で出かけることにするのだが、その矢先、隣家のうるさい子供(がき)にいたずらされて、発車しようとしてバックした拍子に隣家の自家用車にぶつけてしまい(わざとぶつけたようでもある)、早くもいざこざが起こる。最初はうるさい子供(がき)の水鉄砲から、ついにはその父親がライフル銃を持ちだしてきてぶっぱなすという、ドタバタ調の喧嘩騒ぎにエスカレートする──バルザック的な「パリ生活の情景」という字幕とともに。

 土曜日、午前11時(という字幕が入る)。畑に囲まれた田舎道に、えんえんと長蛇の列をなす車、車、車の大渋滞である。自家用車、オープンカー、動物(ライオンの檻、ラマの檻など)をのせたトラック、秣を積んだ馬車、石油会社のタンクローリー、観光バスなども。

 なぜか1台だけ、逆方向になって車と車のあいだにきっちりおさまっている自家用車がある。身動きひとつできないくらいのものすごい渋滞で、ドライバーたちはみな、いらだたしげにクラクションを鳴らしている。1台の自家用車が車と車のあいだに割り込もうとすると、うしろの車がすっと前につめて割り込みを妨害する。それでも、やっとなんとか割り込むと、うしろからつめてきた車が後部にぶつけたりする。主人公夫婦の車は、そんななかを、巧妙に、狡猾に車の列をぬって前へ進んでいくが、わきをすれすれに通過するごとにドライバーたちにがみがみ文句を言われる。

 暇つぶしに、車に積んだ自家用ヨットの白帆を揚げている男、車から出て子供とボール投げをしている男、道端にすわりこんでトランプやチェスをしている人たち。

 キャメラはゆるやかに渋滞の列に沿って全長300メートルもの長い、長い移動撮影をつづける。途中、「午後1時40分」「週末(ウィークエンド)」「午後2時10分」という3つの字幕が入るが、その緊迫した持続力は失われることがなく、本来はワンカット撮影であることがわかる。

 アメリカ喜劇、とくにサイレント時代の最後のスラップスティック・コメディーの傑作中の傑作と言ってもいいローレル&ハーディの『極楽交通渋滞』(1928)の残酷なパロディーである。キャメラが渋滞の先端にたどりつくと、血にまみれた路上には衝突して転覆した2台の自家用車、道端の草の上には親子らしい一家の死体が横たわっている。

 警官がひとり、呼子を鳴らして交通整理をしているのだが、そこを通り抜けて、主人公夫婦の車はその先で、本道からそれて迂回するほうが早道とばかりに右折して小さな道に入り、畑地のかなたへ消えていくのだが、このあたりもローレル&ハーディの映画にそっくりなのである。

 日本では極楽コンビの名でよばれたチビのスタン・ローレルとデブのオリヴァー・ハーディのコメディー・チームはヌーヴェル・ヴァーグに愛され、とくにジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーはローレル&ハーディの大ファンだった。ゴダールの『女は女である』(1961)でローレル&ハーディのようにふざけながら女(アンナ・カリーナ)を競い合うジャン=ポール・ベルモンドとジャン=クロード・ブリアリ、『気狂いピエロ』(1965)のガソリンスタンドのドタバタ調の喧嘩のシーンではアンナ・カリーナが「ローレル&ハーディがよくやる手があるわ」と言って、アンリ・アタルとドミニク・ザルディの与太者コンビの一方に対して、左手で上方を指さし、相手がつられて上を見上げたすきに、右手で腹部に一発かまして倒してしまう。トリュフォーの『突然炎のごとく』(1962)の冒頭のタイトルバックでローレル&ハーディのようにふざけあうジュール(オスカー・ヴェルナー)とジム(アンリ・セール)、『夜霧の恋人たち』(1968)ではスタン・ローレルとオリヴァー・ハーディのお面をつけた双子の子供が出てきたり、『家庭』(1970)では夫婦のベッドのなかでアントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオー)が妻のクリスチーヌ(クロード・ジャド)の乳房をのぞきこんで、「大きさが違う、ローレル&ハーディみたいだ」などとちょっと悪い冗談を言ったりする。

 ゴダールは、『気狂いピエロ』(1965)でジャン=ポール・ベルモンドとアンナ・カリーナが逃走の旅のあいだその豪華な復刻版を持ち歩くルイ・フォルトンの漫画「ピエ・ニクレ」(第一次世界大戦前夜に生まれたフランスのドタバタ喜劇の原点になった)の感覚で『ウィークエンド』を撮ったのだという。周知のように、ドタバタ喜劇が最初に生まれたのはフランスにおいてであり、フランス語ではコメディー・ビュルレスクcomedie burlesqueというのだが、アメリカでいわゆるスラップスティック・コメディーが生まれるのは1920年代、「喜劇の王様」マック・セネットも言うようにフランスのドタバタ喜劇の影響からだった。

 『ウィークエンド』は、いわばフランス映画の原点──思えばスクリーンに上映された世界最初の映画の1本であるルイ・リュミエールの『水を撒かれた水撒く人』(1895)もジョルジュ・メリエスのトリック映画もドタバタ喜劇だった──に立ち戻ってそこから現代的な感覚でつくり直したポスト・モダン的コメディー・ビュルレスク、ゴダールならではの「映画とは何か」を問いつづけながら撮った究極のドタバタ喜劇だったのである。

 『極楽交通渋滞』はローレル&ハーディの自動車が最後にトンネルをくぐり抜けようとして前から直進してくる列車に押し潰され、押し返されてしまうというのがオチになるのだが、『ウィークエンド』のタフな夫婦は、死にかけの父親の遺言に間に合うように、ぐいぐい突き進み、いよいよ車の運転のスピードを上げ、追い抜き、追い越され、衝突事故が起こらないほうが不自然なくらいだ。車と車が激突する瞬間、映写ミスでフレームがずれてしまったかのようにコマがひっかかって(パーフォレーションのズレというか、映画編集の用語で言えば「目ちがい」になって)映像が上下に切断されてフレームからはみ出てしまうところもある──映画そのものが衝突事故を起こして画面がこわれてしまうのだ!

 車は走る兇器どころか、まさに響きと怒りにみちた狂気になる。事故現場は虐殺のあと、殺戮のあとのようだ。阿鼻叫喚の巷、燃え上がる車、血みどろの道路に死屍累々、惨劇に次ぐ惨劇である。



4. フランス革命から現代の週末に至る


 「万国労働歌」をほがらかに口ずさみながら走ってくる農夫(ジョルジュ・スタッケ)のトラクターとパリから来たブルジョワの若者のスポーツカーが衝突して、運転していたサングラスの若者が即死、その恋人の若い娘(『中国女』ではパリに出てきた田舎娘イヴォンヌに扮していたジュリエット・ベルトがグリーンのセーターと黄色のミニ・スラックス姿のおしゃれなハイティーン娘を演じている)が農夫を「田舎者の人殺し」とののしりつづけ、農夫も若い娘を「パリの売女(ばいた)」と罵倒し、激烈な「階級闘争」(と赤の字幕で出る)の果てに、「万国労働歌」のメロディーとともに仲良く記念写真におさまるのだが、それは「にせ写真」(フランス語で写真を意味するフォトグラフィーPHOTOGRAPHIEのフォにあたるPHOが発音は同じだが「真実を偽った」という意味のFAUXになって、青の字幕で出る)にすぎないというような小さな田舎町の出来事から、野原のまんなかでジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」を大声で朗読するフランス革命の立役者のひとり(ジャコバン党ロベスピエール派の強力な闘士)として知られたサン=ジュストの出現に至って(「フランス革命から現代の週末(ウィークエンド)に至る」という字幕が出る)、時空を超えた不思議の国の黙示録的週末旅行は急速に革命劇の様相を帯びてくる。18世紀の大革命当時の服装をしたサン=ジュストの役を演じるのはジャン=ピエール・レオーで、『中国女』でも同じ服装でサン=ジュストの役をやり、大劇場(たぶんコメディー・フランセーズのような国立劇場)の桟敷で、「こんなブルジョワ芝居はもうたくさんだ」と叫んでいたが、『ウィークエンド』では、いよいよ真の革命劇の舞台への出番だとばかりに、長い羽毛のついた帽子をかぶり、腰にはフランスの国旗と同じ青、白、赤の三色旗を型取った帯を垂らし、おおらかに、さっそうと演じている。すぐそのあと、同じジャン=ピエール・レオーが現代の週末(ウィークエンド)で、もちろんサン=ジュストとしてではなく、現代の青年として、2役で出演し、野原の真ん中にポツンと設置された電話ボックスで恋人にギー・ベアールのシャンソン(「もしもし聞こえるかい?」)を歌って長電話をしているのだ。

 ここで電話と車を奪い合って、ジャン・ヤンヌ、ミレーユ・ダルクの夫婦とジャン=ピエール・レオーがドタバタ調の大喧嘩をするのだが(ジャン=ピエール・レオーが最後に奥の手として空手チョップを使うところがおかしい)、ジャン=ピエール・レオーが出ているというだけで、ゴダールの演出もなんとなくうきうきとしてたのしそうだ。ジャン=ピエール・レオーも、フランソワ・トリュフォー監督の『夜霧の恋人たち』(1968)の兵役から解放されたアントワーヌ・ドワネルの軽快なイメージをすでに予告するようなたのしさなのである。

 森の小径で書物人間のカップルに出会うシーンもトリュフォーの『華氏451』(1966)を想起させる。「不思議の国のアリス」みたいな少女のなりをした「嵐が丘」の女流作家、エミリ・ブロンテとシャルル・ペローの童話から抜け出てきたような太った親指小僧。『中国女』のラストシーンにチラッと出ていたブランディーヌ・ジャンソン(『中国女』に「生きた知性」として特別出演したフランシス・ジャンソン教授の娘)がエミリ・ブロンテを、『メイド・イン・USA』(1966)でデヴィッド・グーディスの役を演じていたイヴ・アルフォンゾが腹の出たふとっちょの親指小僧を演じていて、本を読みながら歩く乙女っぽいエミリ・ブロンテと小石をひろってはポケットに入れて集めているでぶの親指小僧のカップルはいかにも詩的な美しい童話的イメージなのに(実際、ふたりは「ルイス・キャロルの家のほうへ」向かう途中なのだ)、ロラン/ジャン・ヤンヌとコリンヌ/ミレーユ・ダルクの散文的夫婦は遺産相続のためにコリンヌの実家のあるワンヴィルの方向を教えてもらえないので、頭にきて、ふとっちょ親指小僧には石を投げつけ、ルイス・キャロルの「記号論理学」を読みつづけるエミリ・ブロンテにはライターで火をつける。エミリ・ブロンテは燃え上がり、やがて燃えつきる。残酷なパロディーだ。『華氏451』のトリュフォーへの目くばせというよりは、最後の挨拶のようだ。

 「アリゾナ・ジュール」という字幕とともに、西部活劇「アリゾナ・ジム」という新聞連載漫画を描いている主人公(ルネ・ルフェーヴル)のドラマを追うジャン・ルノワール監督の『ランジュ氏の犯罪』(1935)とトリュフォーの『突然炎のごとく──ジュールとジム』(1962)とを合わせて皮肉ってあたかも決別の挨拶をするところもある。

 ゴダール自身のパロディーもある。たとえば『カラビニエ』(1963)でパルチザンの少女の帽子(キャスケット)をカービン銃兵がとると、金髪がこぼれ落ちるところをロングで、次いでそのままアップで見せるのでイメージがダブり、つなぎ間違いと非難されたシーンの自己パロディーのように、森のなかの銃撃戦で女性戦士(ヴァレリー・ラグランジュ)が撃たれて死ぬところでは彼女のアップがうつり、「つなぎ間違い」という字幕が3度も揶揄するような調子で入るところなど。

 エミリ・ブロンテとして焼きつくされたはずのブランディーヌ・ジャンソンが、そのあと、農家の中庭でモーツァルトの「ピアノ・ソナタ」を弾く「音楽行動」のピアニスト(とくにクロード・シャブロルの映画のシナリオライターとして知られるポール・ジェゴーフが特別出演している)のわきに立って譜めくりをしている(らしい)若い娘の役で蘇生(よみがえ)っているのを見ると、ホッとする。もちろん、これは映画なのだし、彼女は2役をやっているだけということではあるのだが──。

 ラストの森のなかの革命ゲリラ部隊の解放区には、「階級闘争」のシーンで農夫と仲直りしたブルジョワのハイティーン娘を演じていたジュリエット・ベルトも、また出てくる──2役ではなく、本当にブルジョワ娘が(パトリシア・ハースト嬢のように?!)テロリストになってしまったのかもしれないのだが。



5. マルドロールの歌


 農家の中庭でポール・ジェゴーフが「音楽行動」の巡回ピアニストとしてモーツァルトの「ピアノ・ソナタ」を弾きながら、古典(伝統)と現代(新しさ)について論じるところは、『はなればなれに』(1964)でダニエル・ジラール扮する英語学院の女教師がシェイクスピアの芸術を「クラッシック(古典的)=モダン(現代的)」と説き、生徒(アンナ・カリーナ)に「新しさとはつねに伝統にもとづく」というT・S・エリオットの定義を引用させるシーンを想起させる。

 ピアニスト/ポール・ジェゴーフは語る。

 要するに、2種類の音楽がある。誰もが耳を傾ける音楽と傾けない音楽だ。モーツァルトは、もちろん、みんなが耳を傾ける音楽だ。
 誰も耳を傾けない音楽とは、猫も逃げだす深刻で退屈な「現代音楽」というやつだ。しかし、真に現代的な音楽は、じつはモーツァルトの古典的な和音にもとづく。ダリオ・モレノもビートルズもローリング・ストーンズもモーツァルトの和音にもとづいている。しかるに、かの深刻なる「現代音楽」の一派は、モーツァルトを葬ろうとして、たぶん芸術史上類例のない不毛におちいった。

(「季刊フィルム」1969年2月第2号所載の仲川譲訳による採録シナリオ)


 田舎の交通渋滞のシーンの長いワンカットの移動撮影とならぶ、これもワンカットの長い移動撮影のシーンなのだが、ピアノ曲とやさしい語りだけの静かなシーンで、たぶん1本のレールが敷かれていて、キャメラがゆるやかに行ったり来たりする。その途中、歩く人物に出会うと、その歩調に合わせるかのようにキャメラはパンしつつ移動をつづける。立ちどまって耳を傾ける農婦が3人、鍬(くわ)をかついでいく若い農夫(カール・ドライヤーの映画に出てくる墓堀人のようにもみえる)、腰を曲げてトボトボ歩き去る老人、退屈そうにあくびをしているロラン/ジャン・ヤンヌとコリンヌ/ミレーユ・ダルクの夫婦……そしてこのシーンにやってきた(たぶん撮影中のゴダールを表敬訪問にきた)特別出演の熱狂的なゴダール支持派の映画評論家ミシェル・クルノーと『中国女』のヒロインからゴダール夫人になったアンヌ・ヴィアゼムスキーがフレーム・インしてくるところからキャメラは方向転換して戻りはじめる。このような180度パンをくりかえすようなワンカットの移動撮影である。回り舞台のようなマックス・オフュルスの映画(『輪舞』、1950)を想起させるシーンだ。

 フランツ・ファノンやマルコムXやストーリー・カーマイケルなどの第三世界やブラック・パワーのメッセージを伝えるアラブ人(ラズロ・サボが演じている)と黒人(本物の活動家らしい)の演説をえんえんと聞かされたあげく(エンゲルスの「家族・私有財産および国家の起源」やL・H・モルガンの「古代社会」からの引用もある)、ゴミ清掃車に乗せてもらって、夫婦はやっとワンヴィルの実家に到着するが、バルザック的な「地方生活の情景」という字幕とともに描かれるのは、埃まみれ、汗まみれ、血まみれのドライブのあと、コリンヌ/ミレーユ・ダルクが浴槽につかるのも束の間、すでに老父は死んだあとで、老母が遺産の相談を頑固にことわるので、殺害してしまうというすさまじいシーンである。そして、死体を車にのせ、グライダーが突っこんだ大木の根っこにぶつけて、ガソリンをまいて火をつけ、事故にみせかける。

 これで遺産はがっぽり手に入るはずだったのだが、夫婦は最後に食人革命ゲリラ軍にとらえられて森のなかの解放区に連行され、夫は豚とともに屠殺され、妻はゲリラの一員になって、豚肉と夫の肉をミックスした骨付きカルビを食う。料理人を演じているのが、ゴダール映画の傍役の常連で、年齢不詳のチビで猫背のエルネスト・メンゼルである。

 映画の字幕は現代の年月日から、いつのまにか、テルミドール(熱月)とかプリュヴィオーズ(雨月)とかヴァンデミエール(葡萄月)とかいった、革命暦(フランス大革命中に制定、施行された、共和暦)に変わっている。

 1968年の「五月革命」がもう間近に迫っていた。『ウィークエンド』は1967年の9月から10月にかけて撮影され、12月末にパリでロードショー公開された。ゴダールはのにちこんなふうに語っている。

  この映画は、公開のときにはあまりヒットしませんでした。でも『中国女』の場合にいくらか似て、その6カ月後に……7、8カ月後に、ある種のこと(「五月革命」)がおこりました。といっても、それがこの映画をよりすぐれたものにしたということじゃありません。ただ単に、私はまだ完全には存在していなかった出来事から着想を得ていたということです。[……]私はいつも、ものごとがおこる以前に、そのものごとに関心をよせていました。旅に出発する前にその旅について語るようなものです。

(「ゴダール/映画史II」、奥村昭夫訳、筑摩書房)


 過去からの「引用」の映画から未来への「予感」の映画にゴダールは飛躍していく。とはいえ、『ウィークエンド』には無数の引用が、過去からの引用が、映画的引用が、これを最後とばかりにちりばめられている。森のなかの解放区では、革命ゲリラ軍の若い隊員たちが無線で連絡し合う──「戦艦ポチョムキンより捜索者へ」「こちら大砂塵、どうぞ」といったぐあいに。革命の映画であり映画の革命でもあったセルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督の『戦艦ポチョムキン』(1925)とともに、ゴダールの愛してやまなかったジョン・フォード監督の西部劇『捜索者』(1956)やニコラス・レイ監督の西部劇『大砂塵』(1954)のタイトルが無線連絡のコードネームとして引用されているのである。

 『ウィークエンド』は「豊饒な60年代ゴダール」の終焉、ゴダールの白鳥の歌とすらみなされた。だが、ラストの森のなかの革命ゲリラ軍の解放区で、ゲリラ戦のリーダーで革命家、チェ・ゲバラとLSDの開拓者でヒッピーのアイドル、ティモシー・リアリーを信奉するジャン=ピエール・カルフォン扮する隊長がドラムをたたきながら、誇らかに朗誦するロートレアモンの「マルドロールの歌」の一節が、あたかもその頂点をきわめた自分のキャリアに背を向けて去っていくゴダールの捨て台詞のように、心に残る。

 おれはこれから感動を抑えて、真剣で冷静な詩の一節を大声で読み上げて、諸君に聞かせよう。諸君、それが内に含んでいるものに用心したまえ、そして、諸君の混乱した想像の中に罪の烙印のように残るに違いない苦々しい影響を警戒したまえ。おれが死にかけているなどと信じてはいけない。おれはまだ一介の骸骨にはなっていないし、老いがおれの額に張りついているわけでもない。だから、今まさに生命がとび去ろうとしている瞬間の白鳥と比べるなどという考えは捨てようじゃないか。そして、ただ一個の怪物を眼前に描いてみたまえ、その顔が諸君に見えないのは幸いだが。と言っても、その顔はその魂ほどに恐ろしいわけではないんだ。

(渡辺広士訳、「ロートレアモン詩集」、思潮社)


 「怪物」ゴダールの魂の歌のようだ。その不敵な面魂が見えるようだ。『ウィークエンド』を撮り終えたとき、ジャン=リュック・ゴダールはまだ36歳だったのである。






■山田宏一さんから
 近刊、近刊と予告ばかりしていた単行本「ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代」(ワイズ出版)がやっと印刷に入りました。こんどこそ近刊です。アンナ・カリーナとキャメラマンのラウル・クタールとのふたつのインタビューをのぞけば、60年代ゴダールの長篇15本(『勝手にしやがれ』から『ウィークエンド』まで)と短篇数本については書下ろしです。約束の『アルファヴィル』論の第2章は印刷に入れる前にコピーをとり忘れてしまい、代わりに(と言っては何ですが)、最後に書き上げた『ウィークエンド』の原稿をコピーにとって「速報 シネマグランプリ」の番外篇として──拙著の予告篇を兼ねて──載せていただくことになりました。


ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代
(2010/06/08)
山田 宏一

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■管理人から
同じく「ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代」に収録される、全11章にわたる『アルファヴィル』論の第1章にあたる「アルファヴィルはモスクワだった……」も当ブログ上にてオープンになっております。あわせてお楽しみください。http://cgrandprix.blog42.fc2.com/blog-entry-356.html



下記は終了いたしました。

山田宏一 写真展 「Nouvelle Vague(ヌーヴェル・ヴァーグ)」
2010/6/5(土)~6/26(土) 13:00-19:00 日曜休廊
『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』(ワイズ出版)出版記念サイン会
2010/6/5(土)15:00~15:30)

GALLERY mestalla(ギャラリー メスタージャ)
〒101-0065 東京都千代田区西神田2-3-5 千栄ビル1F
Tel:03-6666-5500
Fax:03-6666-5856
http://www.gallerymestalla.co.jp/

8×10、11×14インチの主にモノクロ(一部カラーあり)写真を30点展示予定

【プレスリリースより】
ギャラリーメスタージャは、来る2010年6月5日(土)から6月26日(土)まで、企画展として山田宏一写真展「Nouvelle Vague(ヌーヴェル・ヴァーグ)」を開催いたします。山田宏一氏は映画評論家として知られています。氏は60年代にフランスに滞在し、その当時今までになかった斬新な映画を創り上げて世界の映画界を震撼させたヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)の若い映画監督らが活躍した映画批評雑誌カイエ・デュ・シネマの同人となり、まさにその「新しい波」の渦中で映画とともに生きてきました。そこで出会った監督、俳優たち(フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ドゥミ、アンナ・カリーナ、フランソワーズ・ドルレアック、カトリーヌ・ドヌーヴなど)を氏は愛情と情熱を持ってカメラに収めました。そこには実際に撮影現場に立会い、また彼らと親しく交流を持った者にしかとらえることが不可能な彼らの輝く表情が、また知られざる素顔が映っています。今回の展覧会では、既に氏の書籍などに掲載された写真、また本展覧会と同時期に上梓される『ゴダール、わがアンナ・カリーナ時代』(ワイズ出版)の出版記念の一環として未公開写真も含めた展示をいたします。是非ご高覧いただきますよう、お待ち申しあげております。
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 新作映画の公開に先立ち、映画会社は宣伝のため、「試写室」と呼ばれる映写施設で上映会を行なう。
 これは「試写室」に出入りすることを許された、映画を見るプロたちが推薦する最新作をランキング形式で発表する企画。 すなわち、真の必見作がここにある!

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