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http://www.harmony-movie.com/ 2011/1/22公開

高村英次(映画ライター)
陰惨で暗い女囚モノには珍しく、この映画はカラッと明るい。最初はその明るすぎるコメディ調や、内向的(または反抗的)な女囚やバカに陽気な肥満体の部屋(檻)仲間、徒党を組みたがるヤンキー女などの図式的なキャラクターに少々辟易するが、キム・ユンジン(「シュリ」)扮する、獄中出産した女囚ジョンヘの赤ん坊が彼女から引き離されて、里子に出されるあたりから涙腺が緩んでくる。コーラスの練習の合間に紹介される各女囚の過去(罪を犯した経緯)によって彼女たちへの感情移入が増していき、女囚コーラス隊が刑務所外で行われる一般のクリスマスコンサートに特別出演する、という段に及んでそれがピークに。ところがコンサートの合唱披露の前にちょっとした事件があって、それが女囚たちを徹底的に凹ませる。クライマックスの前でワンクッション置く、というのは作劇の常套手段だが、これが実に効いていて合唱シーンをこの上もなく盛り上げる。
ところが“ハーモニー”が本当に凄いのは、これからだ。トーンとしてのコメディ調をあっさり裏切る、ラストの“急展開”・・・しかしこのエンディングはその反対・賛成を問わず、すべての観客に死刑制度への再考を促す重いメッセージを突きつける。思えば我々は受刑者のム所暮らしの実態を知らない。罪を犯し、それを償いながら生活している受刑者が健全に人間的に再生(リスタート)しようとしている、塀の中の生き様を知らない。この映画が本当に描きたかったのはまさにそこだ。“歓喜の歌”で泣かせるのではなく、“非常なる予定調和(死刑)”に憤らせて泣かせる、という作り手の真意に韓国映画の深化を感じた。
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http://www.socialnetwork-movie.jp/ 2011/1/15公開

高村英次(映画ライター)
SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)とは、つまりネットを行う人同士の相互コミュニケーションを円滑&活性化させる会員制ウェブサイトである、というのがその方面に疎い筆者の理解であるが、そのSNSでフェイスブックというサイトを立ち上げ、今や世界で5億人が登録しているというオバケサイトに仕立てたのがこの映画の主人公マーク・ザッカーバーグだ。だがその経緯には異説があって、他人のアイデアを盗用したとか、もともと親友だった共同の立ち上げ人を左遷してサイトを独り占めした、といった訴えが出され、映画はマークとそれら原告(または弁護士)とのヤリトリを交えて、目まぐるしく進行する。
まず何と言っても驚かされるのは、マークを演じる新人ジェシー・アイゼンバーグの猛烈な早口で、“マシンガン・トーク”のロビン・ウィリアムズを凌駕する俳優が久々に現れた、とは誰もが思うだろう。この早口と、かつてのダスティン・ホフマン(「卒業」)のようなジェシーの内向性が映画のトーンを決めてしまっている。それゆえにマーク・ザッカーバーグ本人からこの映画が訴えられた、というのも判る。何故ならジェシーが演じたマークは人から嫌われる典型的なタイプで、友達を平然と裏切る卑劣な人間であり、コンピュータには詳しいが対人関係、特に女性にはまったく不得手なオタクとして表現されている。その真偽、つまりマーク本人がどんな人間なのかは判らない。だが映画で描かれる、ワールドワイドな物凄い大人気サイトを立ち上げた人物がサイテーなダサ男だった、という視点はシニカルで面白く、昨今の日本でも彼のような軽薄な“ネット長者”や狡い“成金投資家”が目立っていたので、とても実感が沸く。
マークの“フェイスブック”の成功話がとめどもない訴訟合戦と絡み合ってコンプリケイテッド(複雑)に描き出される映像には、映像派のデヴィッド・フィンチャー監督の“らしさ”はない。だがそれこそが彼の映像作家としての進歩、成熟を示している。ケレン味やトッポイ映像表現から脱却して、個々のストーリーやシナリオに一番適した表現法で撮る、という演出家の本分に気づいたかのように、フィンチャー監督はデジタル語を物凄い速さでダラダラと並べ立てる無表情な若者を漠然と映し続ける。そこが妙にリアルだ。 マークは成功者だ。しかし成功者であるにも関わらず、まるで喜怒哀楽を失った幼児のような青年であり、その途方に暮れた虚ろな表情はどこか哀しい。これが世界一のネット社会アメリカの姿なのか。そうだとしたら、日本もすでにその病に冒されている気がする。

清水節(編集者/映画評論家)
これは、ごく小さな仲間の集まりで始めたデジタル・メディアによる新しいビジネスの「創造」をめぐり、人間関係が「崩壊」していく様を暴き出した、IT時代の『市民ケーン』である。日本ではまだ浸透していない世界最大のSNS、フェイスブック。その知られざる誕生のプロセスを、3つの立場から描いていくのだが、当事者たちからクレームがつくのも無理はない大胆不敵な傑作だ。主人公のハーバード大生マークは、社会性なき自閉的な天才ハッカーで、女性に振られた腹いせに学内のセキュリティシステムをハッキングし、女子の品定めを目的としたネットサークルを立ち上げる。女子からは非難囂々だったが、写真とプロフィールによって他者を知ることができるそのサイトこそが、やがてフェイスブックに成長したのだという滑り出し。そう、ネット空間に広がる世界的な社交場は、孤独な青年の妬みと願望から生まれたという視点が、説得力をもって語られる。しかし、そのアイデアは俺たちが最初に考えたもののパクリだと訴えるウィンクルボス兄弟。そして、資金提供した共同創業者でありながら、新たなパートナーを見つけたマークに排除され、怒り心頭に発するエドゥアルド。脚本は『羅生門』的アプローチだが、当事者の主観によって少しずつズレた真実があるという既存の描き方ではなく、事の真相は重層構造であって、彼らの証言はいずれも真実なのだという描写に、ぐいぐいと吸い寄せられる。かつてスタイリッシュと呼ばれたフィンチャー演出は、近年徐々に淡泊になってきたが、本作においてそれは極まっている。簡素ともいえるヴィジュアルに、セリフの洪水。それは現実に重きを置かず、自己愛に満ちどこか幼稚ゆえ、コミュニケーション不全のまま膨大な情報の海を泳ぐ彼らの世界観を表す上で、意味をもつ。そもそもビジネスなどには興味はなかったであろうオタク青年が、世界中の人々を繋いで億万長者となり、その名誉と利益をめぐって訴訟に巻き込まれる皮肉と悲哀。ネットを介し5億人の仲間を結びつけることになった青年が、実人生では身近な仲間にすら離反され、心に空洞を抱えているという本作のテーマは、古めかしく根源的でありながら、今を生きる者たちにとってあまりにも重要である。
http://aisuru-hito.com/ 2011/1/15公開

高崎俊夫(編集者)
原題も「母と子」というシンプルなもの。
父親のノーベル賞作家ガルシア・マルケスが壮大なホラ話というか破天荒な寓話的世界をマジック・リアリズムの手法で描くのとは対照的に、ロドリゴ・ガルシアはまるでレイモンド・カーヴァーのようなミニマリズムのタッチで、不安や喪失感を抱えた女性の内面世界を好んで描く。これまでの作品は、そのあまりに文学的な手触りがやや鼻につく感じだったが、本作はちょっと違う。
14歳で女の子を出産して、養子に出し、その後、音信不通のまま、老境を迎えてしまったアネット・ベニングとその娘ナオミ・ワッツの物語だ。永年の年月をへだてた再会、激しい葛藤というドラマ展開を予想したが、まったく、はずれた。
冒頭から、クローズ・アップで目尻の皺、手のシミを露わにするアネット・ベニングがすばらしい。不幸な思春期を過ごしたために、極端なまでに男に禁欲的で過剰反応してしまうというキャラクターは、『ザ・グリフターズ』をはじめ、過去の彼女のニンフォマニアックなイメージを知っているファンにとっては奇妙な感慨を覚えるが、歳を重ねることで、これほどまでに渋い魅力を増したアメリカ女優もめずらしいのではないか。
いっぽうで、ストイックで薄幸なヒロインがもっとも似合う女優ナオミ・ワッツが、ここでは、かつてのアネット・ベニングのような妖しくなまなましいエロスを発散する。マンションのベランダで、全裸にワイシャツ一枚をはおった姿で、隣の新婚の夫を誘惑するシーンなど、思わず息をのむ。実際に彼女が妊娠していた時に撮ったとおぼしいショットも含まれ、<母性>と<エロス>をめぐる臨床的な考察としても興味深い一篇だ。
http://www.ddp-movie.jp/woodstock/ 2011/1/15公開

まつかわゆま(シネマアナリスト)
10年くらい前になるかな、ウッドストックのコンサートがここで開かれたという町に行ったことがある。ニューヨーク州のキャッツキルというところで、マンハッタンから電車で40分くらいのところ、かな。駅に降りたらなぁぁぁんにもなくって、目的地(世界最大の万華鏡)までどうやって行けばいいか、親子三人途方に暮れたっけ。で、駅にあった電話でタクシーを呼んで駅から30分くらいもうちょっとかな、行ったところにその町はあったんですね。正確には、町はなくて、世界最大の万華鏡のある元・牧場の建物があっただけなんですが。つまり、そんな、なにもないところ、なんですよ。ウッドストックのコンサートをやったところって。で、帰りに駅まで送ってくれた人に、「この辺でウッドストックのコンサートがあったんですってね。あなたも行きましたか? うらやましいですね」なんて言ったわけですよ。そうしたら「いや、私は当時警官で、たいへんでしたわ」。町の人たちにはコンサートもそこに集まってきた人も、ヨソモノでしかなかったんだなと感じまして、私たちはシュンとなってしまったわけです。
が、なんでまたそんな保守的でなんにもないところで、ウッドストックのコンサートが開かれることになったのか、そのときはどんなだったのか、というのが『ウッドストックがやってくる!』という映画です。
昨年のカンヌで見て二回目。もともと舞台裏ものが大好きなので、とても楽しかったんですが、そこに親離れ・子離れのモチーフとか、ユダヤ系移民の世代間ギャップとか、町おこししなくちゃと焦るけれどちっとも歩み寄らない町の人たちとか、ベトナム戦争帰還兵のPTSDとか、野外音楽フェスにむらがる資本家に対するクリエイターのかまえとか、当時の前衛演劇グループの芝居とか、いろいろ盛り込んであって、それがまたおもしろい。この時代のサイケデリックなビジュアル・アートを意識したからだと思うんだけど、LSDでラリっているときの主人公の主観シーンが万華鏡っぽかったりするのも、万華鏡博物館学芸員としては見逃せません。
ウッドストックのコンサートについての映画なのに、演奏シーンが出てこないのも、アン・リー監督は確信犯。ポスターのコピーに「時代は舞台裏で作られる」とあるんだけど、まさに「ウッドストックのコンサート」という「時代・世代」を作った「舞台裏にいた人たち」を、「舞台裏で起こっていたこと」を見せる映画なのね。コンサートで演奏したアーティストやその歌、ではなくて。
この野外ロック・フェスを作り上げた人はカリスマチックな人なんだけど、この町にコンサートを誘致した主人公は、なんともさえない青年なの。その彼が変わっていくのが映画のメイン・プロット、成長物語なんだな。で、この主人公には見ている人が共感できる、というより、自分のほうがましかもしれないって思うわけ。そんな、ルーザーと自負してしまった青年の新規巻き直しと出発を描いてくれる。とぉぉぉくの方から、音楽が聞こえてきて、彼は舞台の方へ向かうのだけれどなかなかたどりつけない。それでもいいの。そこにいることがウッドストックのコンサートだから。そういう感じ。自分がそこにいる、一員である、参加しているって感じ。それが、舞台とかイベントとか、コンサートとか、何かを作る、ってことなんだと思う。そして、その経験は、人を変え得るんだよね。自分を変えられるんだよね。だから、好きなの舞台裏って。
久しぶりに「楽しい映画を見たなぁ」って思わせてくれた作品でした。
プロフィール

れがあるF

Author:れがあるF
 新作映画の公開に先立ち、映画会社は宣伝のため、「試写室」と呼ばれる映写施設で上映会を行なう。
 これは「試写室」に出入りすることを許された、映画を見るプロたちが推薦する最新作をランキング形式で発表する企画。 すなわち、真の必見作がここにある!

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